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『TranSenses』(2017年4月27―29日 @Tangente’s dance program VIRTUALLY, IN THE FLESH in Montreal)レビュー 1)Sors-tu? CA/CRITIQUE PUBLIE´ 2017年5月1日 “RE´SONANCES VIRTUELLES | VISIONS FUTURISTES DE L’HUMANITE´ CHEZ TANGENTE” Me´lanie Vibrac 氏評 TranSensesとその宇宙、私たちの宇宙? 先行上演のパフォーマンスでは、破茶滅茶だが面白い時間を過ごせた。続く作品ではLucy M. Mayが廊下に現れ、Wilderのカフェバーを通っていった。そして、次に上演された北村明子とNavid NavabによるTranSensesでは、「宇宙と対話する身体のメタフィジカルな旅」(プログラムから引用)に出た。 作品は一人のダンサーが電子音響に反応して胸を動かすところから始まった。そして、床に投影されたプロジェクションと互いに作用しながら動くことでダンサーが自分の影に命を吹き込み、変化を遂げていく。 身体、音楽、映像の三つの要素が完璧なバランスで融合され、詩的な水の世界から調教師とライオンの対決を連想させるような動き、または自分自身との戦いとも思える課程を経て、ブラックホールの世界へと移っていく。 多少のテクニカルトラブルがあったようだが、完璧な連続性が保たれていて、変化をし続けながら立体的な現実世界が形成されていく。最終的にその現実とは、わずかな音や視覚情報に反応してしまう私たちの日常であることがわかった。 ※一部を抜粋して和訳しています。記事全文は下記からご覧いただけます。 http://www.sorstu.ca/resonances-virtuelles-visions-futuristes-de-lhumanite-chez-tangente/ 2)Les Meconnus.net .2017年4月30日 《 Re´sonances virtuelles 》: le co^te´ trash de la technologie Nathan Giroux氏評 公演の第一部 私たちは北村明子とNavid NavabによるTranSensesが上演される会場に移動しました。余談ですが、私は移動中にチケットを落としてしまい、下手すれば入れなかったかもしれません。 TranSenses−北村明子、Navid Navab 大きな空間をイメージしてみてください。中心には一人のダンサー、ダンサーの動きにリアルタイムで反応する電子音響、床にはインタラクティブな映像が投影されています。その三つのメディアが作品を通して融合していました。 とても説得力のある作品でした。特に音楽に関して(私は音楽に関しては詳しいので)はそう思いました。音は動きの加速などに比例していて、音と動きのフィードバック関係が常に保たれていました。 私たちは風、水、繰り返されるベース音、聞こえては消えてゆくという循環を永遠に繰り返す囁きなど様々な音質に触れることができました。 ダンサーは流れ星が一面に広がるかのような空間で踊ったり、ブラックホールに飲み込まれたり、水中にある夢幻の世界への往来を果たしていました。ダンサーの身体に投影される直線はあたかも地形図でもあるかのように思えました。 私はダンスのテクニックに関して語れるほどの知識はありませんが、ダンスを研究している同僚から休憩中に話を聞いたところ、「何かから影響されて生じる動きと衝動的な動きの探求のように見えた。」と語っていました。 ※一部を抜粋して和訳しています。記事全文は下記からご覧いただけます。 http://lesmeconnus.net/resonances-virtuelles-tangente-danse-critique/ 3) Sur les pas du spectateur 2017年4月30日 “Sur mes pas en danse: des "Re´sonances virtuelles" toutes aussi re´elles que de´routantes” Robert St. 氏評 今晩の公演は良いスタートを切って始まりました。北村明子(ダンサー)とNavid NavabによるTranSensesは会場内での上演だった為、私たちは移動を促され会場に入りました。作品中の私の状態を説明するとしたら、「魅了された」というのが正しいかと思います。プログラムには、「知覚できる現象を超えて、形而上学的な想像への探求」とありました。作品ではダンサーが自分の周りにある仮想環境と対話することで素晴らしい音と映像が生まれ、私はただ魅了されるばかりでした。身体の動きは美しく、センサーによって拾われステージに音や映像として反響することで、強調されて見えていました。実のところ、私はこのダンサーとならば宇宙の果てまで行くということも受け入れると思います。彼女は拍手のために戻ることもなく去って行きました。まるで、仮想の存在だったかのように。神秘的な存在であるかのように。 ※一部を抜粋して和訳しています。記事全文は下記からご覧いただけます。 http://surlespasduspectateur.blogspot.jp/2017/04/sur-mes-pas-en-danse-des-resonances.html |
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'To Belong / Suwung' ◆シアターアーツ
「アジアの再発見と自己の再発見 北村明子『To Belong / Suwung』」 ◆チャコット
「著しい進境を見せたインドネシアと日本のコラボレーション「To Belong project」 ◆Detik Hot 批評
'To Belong / Suwung' 公演:身体の対話 ジャカルタ このような出会いを基に様々な研究の成果をコラボレーション作品として製作。他にはテアトル・ガラシの芸術監督ユディ・タジュディンを招聘し、コラボレーションのパートナーとして作品作りに携わる。その成果がダンスに様々な要素を取り入れた本公演、『To Belong / Suwung』 。2013年11月に長野で初演され、翌年3月にシンガポールで再演、同年10月には東京の国際ダンス・フェスティバル「ダンス・ニュー・エア」でも上演された。 2014年末、待ちわびたインドネシアの聴衆にこの特別な公演を観る機会が訪れた。当初、『To Belong / Suwung』のインドネシア公演予定は無かったが幸いにも見逃せない機会が訪れた。それも、北村明子がジャカルタでオペラ・シアター『ガンダリ』を手がける事になり(シアター・ジャカルタにて、12月12・13日)演出をユディ・タジュディンが手がけ、 『To Belong / Suwung』のダンサー達も出演する事になったからだ。ダンサーは3名のインドネシア人と日本人3名で構成。この様に主要メンバーが集まった事で 『To Belong / Suwung』 をジャカルタで上演する機会に繋がった。 『To Belong / Suwung』はとても贅沢な作品構成である。限られた舞台上のスペースにはカーテンの様な幕が吊られ、時には映像が映し出されるスクリーンともなる。冒頭ではスラマット・グンドノが彼特有のスタイルで歌う映像が映し出された。手にはウクレレを持ち、バニュマス地方の方言で語る。その後、同じような小さなギターを手にしたエンダ・ララスが登場する。次々と現れるダンサーの動きに合わせてララスが歌う。始めは3人の日本人の動きに対してソロとジョグジャカルタ出身の3人のインドネシア人が動くが、それはまるで会話をしようと、お互いを理解しようとしているかのように捉えられる。距離を保ち、互いの異なる動きに反応するなか、徐々に6名の動きが合わさり、相手に反応する仕草に変わっていく。そこには日本とインドネシアの武術が取り入れられ、二つの異なる文化から生まれた踊りは言葉を用いない会話となり、ダイナミックでエネルギーに溢れる。 森永泰弘がプロデュースした音楽には様々なフィールド・レコーディングが取り入れられ、スラマット・グンドノの語りや、ジャワのモハメッド・マルツキのヒップホップなどが含まれる。ある場面ではまるで踊り手達の身体の合間をスラマットの声が埋め尽くすような現象が起きる。影絵師は巨人が葉の上の雫で喉を潤わす事が出来ない事に対するもどかしさ、怒りを表し、一滴の露に対する自身の無能力と小ささを語る。その後、スラマットの声はマルツキの、魂が寄り添う”神聖さを失わない”身体を語る歌に繋がっていく。 このスラマットからマルツキへのトランジションは驚くほど自然であり、全ての要素、動き、歌、そしてアニメーションなどの映像が自然に交合う。 このような様々な要素が取り合わされた作品では、関連性が無い他人同士が集まったかのように思える事もあるが、それをスラマット・グンドノが元締めとなり重要な役割を担う。残念ながらそのスラマットは2013年に亡くなった。この独創的で素晴らしいコラボレーションはスラマットに捧げるべき作品であり、そのため今回のインドネシアでの公演には特別な意味合いがある。朗報はジャカルタでの2公演に続き、『To Belong / Suwung』はその生まれの土地、ソロでも上演される。ジャカルタではゲーテ・インスティチュートで上演中、残すところ今夜12月17日(水)20時から無料公演がある。ソロではISI劇場で12月20日(土)に上演。 本作品はスラマット・グンドノが関わった最後の国際的な芸術作品となった。生前最後に作曲した歌は本作品の中で重要な役割を果たし、またインドネシアでは初めて披露される。『To Belong / Suwung』の公演はスラマットへのオマージュとして、彼の国際的な芸術界とインドネシアの芸術への貢献と実績をたたえる作品となる。 |
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“To Belong” -愛と消失 ****** 執筆 Novani Nugrahani これは、人形遣い師であるスラマット・グンドノから生み出された物語の一部であり、現に彼は”To Belong”のオープニングにその物語の創造者として登場する。 ダンス作品“To Belong”は2012年4月28日にジャカルタ サリハラ劇場で上演された。日本のダンサー、振付家である北村明子は、スラマット・グンドノの人生の物語を映像、音楽、マーシャル・アーツ、ダンスの形式へと翻訳することを試み、この人形遣い師を作品の背景に置く。プンチャック・シラットとジャワ伝統舞踊を融合させる、というこのような極めて稀な要素の結びつきは、決してシンプルではない。冒頭から、観客は、荒々しいダンサーたちによって、素早く、破壊的で、時には、激しく衝突し合うような動きを見せられることになる。 グンドノの人生の物語は愛と消失のジレンマに満ち、それは、彼の言葉と時折挿入される、ジャワスタイルの歌によって披露される。 グンドノは言語上の壁を打ち破り、彼の母が最後の時を迎え、家族がその生命をあきらめるまでの物語を語り続ける。その物語のメランコリックな要素や彼の母への愛の感情は、4人のダンサー(マルチナス・ミロト、リアント、三東瑠璃、北村明子)によって翻訳されていく。 北村は英語で動きの説明をし、リアントはインドネシア語で、三東は日本語で、ミロトはジャワなまりの英語で、対話を続けていく。 動きは、説明や、視覚的効果、芸術的で錯綜した無限の社会的な衝突をほのめかしている。衝突とは、グンドノが、彼の母を失う時に経験した、感情的なものでもある。 石川慶は、芸術的視覚的な作品で舞台上を完成させている。冒頭では、ピンク・フロイドのアルバム”The Wall”を筆者に彷彿させた。森永泰弘が音楽と自然、他、彼が東南アジアで採集したあらゆる音の素材を結合させたサウンドで、観客の耳をノックアウトし虜にした。 “To Belong”は想像力に満ちている。ダンス、演劇、パフォーマンスというだけではない。北村明子は、芸術のコミュニティーを提示し、そして、伝統的な舞踊と武術、映像、音楽、影絵へのオーディオ・ゲーム的な挑戦を共存させた。 |
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Koran Tempo-To Belong 2012年4月29日 “Koreograhi Cinta dan Kehilangan 愛と喪失の踊り” ****** (NUNUY NURHAYATI記) 長い4枚の白布が並べられ、一つの大きなスクリーンを作り出す。このスクリーンに映し出されるのは、小さな青いギターを手にする大きな体の芸術家、スラマット・グンドノである。その姿はゆっくりと色のないスケッチへと変わっていく。アニメーションとなったグンドノの頭が徐々に大写し(アップ)となる。頭が開かれ、そこから人の形が4つ飛び出してくる。 そしてスクリーンの映像は消える。舞台に並べられていた主のない4つの椅子全てには今、人が居る。うち2つの椅子には、日本からやってきた著名な振付家とダンサー、北村明子と三東瑠璃が座っている。残りの2つに座るのはインドネシア舞踊の芸術家、マルチナス・ミロトとリアントである。彼らはしばしば海外でも作品を上演している。2つの異なるバックグラウンドをもつ彼ら4人のダンサーは、それぞれの椅子に座り、ただじっと黙っている。彼らは再びスクリーンに映し出された実写映像のグンドノが語る話を聞いている。 庭の真ん中で、自身が小さかった頃の母との思い出をグンドノは語る。母の名前はソインダップ。彼女は子供たちへの愛情細やかな女性であった。毎夜、グンドノとその兄弟たちが寝る前にお伽話を話し聞かせた。哀しいことにある日、母は浴室で倒れ寝たきりとなってしまう。何年も何年もグンドノと家族は彼女を介護し、最後に母は神に召されて旅立った。 スラマット・グンドノが話す喪失の物語は、北村、三東、リアントそしてミロトそれぞれに、愛する存在の喪失を思い出させた。ミロトとリアントは自分たちの踊りの才能を心から応援してくれた亡き母を思い、北村は3年前に癌で他界した父を思う。そして三東は、最愛の猫テトの死で感じた喪失を語る。 2012年4月27,28日にジャカルタのパサール・ミングゥにあるサリハラ劇場で上演されたダンス作品To Belongを終始貫くのが、この愛と喪失である。この感情と内に仕舞っていた思い出は、言葉と動きでのみ表現されるのではない。重なる動きを通してもまた語られる。最近3年間における北村明子の最新作がTo Belongである。 |
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SINDO WEEKLY
Sjafrial Arifin
SINDO WEEKLY |
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ビデオオペラ"KAIRO"の舞台評 カイエ・デュ・シネマ 2010年1月 ”ファントム・ダンサー” ****** 舞台)ヴァレンシエンヌ。アール・ゾイドが『回路』を「話すオペラ」として上演 し、2000年代もっとも美しい幽霊が踊る。 ファントム・ダンサー 黒沢清のフランスツアーは、ナント(3大陸回顧フェスティバル)、パリ(国立映画学校の学生との二日間の対話)を経て、12月11日ヴァレンシエンヌで幕を閉じたが、そこで黒沢はアール・ゾイドの作品『回路』の初演に姿を見せた。『回路』は、映画のリメイク版ではなく、アール・ゾイドのリーダー、ジェラール・ウルベットが、黒沢が自らのシナリオから書き直した小説をもとにして生み出した「話すオペラ」である。アール・ゾイドは70年代のプログレッシブ・ロック・シーンに登場し、多くのシネ・コンサート(『ノスフェラトゥ』など)を行った。たしかに、楽曲は古臭さを感じさせ(back from the 80’sシンセサイザー)、「話す」場面はいささかその場しのぎではあるが、この作品の価値は、北村明子の存在にこそある。彼女のはかなげなシルエットはすでに、映画『回路』の中で、黒沢作品のもっとも驚くべき幽霊のひとつを具現化している。その登場シーンは、暗い部屋の奥から彼女が何とも名状しがたい足取りで、恐怖に固まった若い男の方へと歩み寄り、男の方は愚かにもソファの後ろに逃げ、身動きがとれなくなってしまう、というものだ。今回、黒沢監督自身から、この作品の企画者に、ヴァレンシエンヌのフェニックス国立劇場の舞台にこのダンサーを呼んではどうかと提案があったということである。(この舞台作品に対する監督からの唯一の助言だった。)上演にあたって、北村は『回路』における常識外れの動きに大幅な変更を加えることなく、映画の中でつくりあげた世界をもとに振り付けをおこなった。すなわち、黒いゆったりとした衣装は死の象徴であり、踊り手は、盲目の亡霊のような、死体をではなく生者を嗅ぎつける敏捷なモグラのような動きで移動してきて、突然崩れ落ちる。どこからか現れて突き出され、理由もなく硬直するただ一本の脚によって異常な位置で凝縮する身体―「死」の舞踏の踊り手はやさしく、病んでいる。 パンダグラフのダンス 上演期間中の会見で、北村明子は、宮崎駿アニメのキャラクターのような微笑みを見せながら、自らのダンス歴について語ってくれた。クラシック・バレエ、ジャズ・ダンス、舞踏、あこがれの対象(マイケル・ジャクソン、フォーサイス、ケースマイケル、ピナ・バウシュ…)―彼らのおかげで、北村は1994年、24歳で自らのカンパニー、レニ・バッソを立ち上げた。黒沢監督自身、彼女の舞台を見て、映画の中で幽霊を演じてもらおうと思いついたのだった。その機会は2001年の『回路』における有名なシーンで実現する。北村によれば、黒沢監督は、ラフスケッチを送ってきて、電車のパンタグラフから腕の動きをつくるのはどうかと提案してきたそうである。ちょうどこんな風に:<>。その時から、遅々とした、険しい作業はバランスを失っていく。北村明子は、この場面の動きを撮影中のかなり長い間、いっしょにチェックする黒沢監督からダメ出しされて修正しながら繰り返した。彼女はもう、幽霊が急につまづいて、よろめくというアイディアがどこから来たか思い出せない。というのも、この恐ろしくも異常なダンスの探究の間、幽霊は転んでしまわず、前に進み続けたからだ。北村によればそれは監督から出た思いつきだということだが、監督によればそれは彼女の方からだったという。ヴァレンシエンヌで北村は振り付けの基本的な要素、あのパンタグラフの<>は崩していない。彼女はそれをしばしばとぎれとぎれにし、どもらせ、映画から引き出される概念を再び投げ返す。すなわち、おそらく死もまた、コンピューターのバグのような煩わしい形をしているのだと。 ジャン・フィリップ・テセ カイエ・デュ・シネマ2010年1月 |
Review "KAIRO". < CLICK to PDF >
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Ghostly Round 儀式の錯綜の中で BERLINER ZEITUNG紙 (ドイツ、2005) "Ghostly Round"は、白昼夢のような、瞑想的な作品だ。これに先立つ作品群では、北村明子は過剰なほどの機材を用意し、ヴァーチャルな世界で戯れてみせた。この世界に対して身体は自らを主張しながら、そのなかに取り込まれて消失していた。伝説的なパフォーマンス集団ダムタイプの跡を辿っているという評判は、北村の最初のドイツ客演時、これらの作品によって生まれたものである。"Ghostly Round"では、人を驚かすためのテクニカルな技巧はことごとく削除されている。それに代わって、ダンスの本質に迫る、むしろ静かで深みのある作品が生まれた。これは、ダンスがいかに社会の規則やコードや儀式の裏をかいて無力化するかについて想像を巡らせた作品だ。北村のダンスのファンタジーは全般的に抽象的なトーンに抑えられている。この規律と混沌の緊張関係において、ダンスのもつ不可視の要素を用いた遊戯が行われている。もしくは、北村自身が言うように「ダンスとはパラサイトのようなもの」なのだ。 トランス状態のマシーン・ダンス TAGESSPIEGEL紙 (ドイツ、2005) これは大都市のダンスである。東京のダンス・カンパニー、レニ・バッソはその作品“Ghostly Round”でほとんどコントロール不可能なダンス・ウィルスに感染したかのようだった。白い衣装をまとったダンサーたちが半円形の舞台に登場する。手を臍(丹田)のあたりに当てているが、それは力の源を意識しようとしているかのようだ。発作のようにダンスの衝動が彼らを襲う。時折彼らはせわしないロボットに変身する。“Ghostly Round”は抑制と表出の間を行き来する。振付家北村明子は、日本社会の矛盾を、身体をもって告知しているのだ。それは機械の内部を覗き込むかのような印象を残すものだった。 |
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エレファントローズ 多層化された多彩な切り口 門行人 オン・ステージ新聞 (日本、2006) 北村明子と言えば、モノトーンの衣装と切っ先鋭い高速の動きが特徴で、禁欲的、無性的、無機的といった単語を連想させる振付家だ。この作品でも、ビデオアートのように、寸断してはブルブル震えるといった硬質の動きが見られ、魔的なまでのその魅力に変りはない。しかし、この作品では北村の新たな試みを見ることもできる。ほぼ暗闇の中で生き物の根源である呼吸の音が呼び交わされるさまは、夜中のジャングルのように野生の力を感じさせる。生身の肉体を意識させる要素の導入により、パフォーマーは一人の男性や女性として取り戻され、観客も禁欲的な態度から解放されて、多層化された作品の好きな部分を楽しめるようになった。 |
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Finks NEW YORK TIMES紙 (USA, 2001) 北村明子は武術的な仕草をダンスにおける劇的な出会いへと見事に様式化してみせた。ダンサーたちがパートナーに対して驚くほどの近距離から繰り返ししかけていく武術的な攻撃の仕草を特徴とするが、しかしそれらは極めて優美で滑らかであり、それらの本来の形からは驚くほど異なったものに変形されている。日本の現代ダンスはもはやマース・カニングハムのコピーであることをやめたのだ VOLKSKRANT紙 (オランダ, 2001) 北村は魅惑的かつ不可思議な世界を見事に作り出した 。 BALLET TANZ誌 (ドイツ, 2001) Writer: Akiko Tachiki 「Finks」は、北村明子の才能を見事にみせつけた! |
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フル(ダ)ブル |
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bittersidewinder 下北沢通信 (1999) Writer: 中西 理 レニ・バッソ「bittersidewinder」はカッコよさを追求したダンスとしては日本で希有なものだったと思う。中でも後半、舞台手前の長方形に区切られたスポット光の中でひとりのダンサーがくねくねと身体をくねらせるように踊りだし、その後、舞台の正面客席から見て遠い方向にもうひとつの光の長方形ができてここで北村明子自身がやはりソロで踊りだす。これ以降の次第に音も光も速度を増すようにダンサーも旋回とジャンプの動きに激しさを増して、音楽のドライブ感に同期するように一気にクライマックスに突き進んでいく。この約20分ほどのダンスは圧巻であったと思う。この舞台については思想のないダム・タイプという評がネット上であったが、ことレニ・バッソに関していえば、思想などは必要ない。純粋に個々のダンサーの動きと群舞におけるフォーメーションの変化に還元できる、そして更にいうならそうしたダンスの要素が照明、音楽とコラボレーション的にかかわりあいながら展開し、テーマのようないわば夾雑物を一切排除するところに北村明子特有のダンスの世界があると思うし、そこが私がこのカンパニーを評価するところなのである。 この作品の後半は、刺激的なダンスであり、現代の日本を感じさせる表現でもあった。ここではドライブ感のある江村桂悟の音楽、北村明子の振付、関口祐二の照明が相乗効果をあげて見事な成果を出していた。ここにこそレニ・バッソの可能性はあるし、より、ムーブメントに鋭さとドライブ感を加えて、ハイテク時代のローザスを目指してほしいのである。 |
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dovetail 月間バレエ (2001) Writer: 武藤大祐 二人の登場人物がイスに座ると、どこからともなくインタビュアーの声。「自己紹介を」「好きな食べ物は?」・・・返事のかわりに机の上のパネルをたたく。すると「う〜ん」だの「こんにちは」だの、噛み合わない答えがトンチンカンにかえってくる。パネルが発する壊れた会話がやがて電子ピアノの音にかわり、パネルをたたくふたりの行為が音楽の演奏へとシフトすれば、それがそのままダンスになっている北村。右に伸びる左腕、その下をくぐる右腕の、打鍵とその軌跡の美しさ。リズムにのって楽しく音を鳴らすことはダンスである。そしてイスから立ち上がった北村の踊りは圧巻の一語に尽きる。左右の直線移動を基礎にして、カミソリのように鋭く速く正確に踊りまくった。時々フィルムがつっかえたようなク・クッというブレがちりばめられ、方向や角度をもてあそぶフェイントも心憎いまでにキマる。さらに後半は粟津の生ドラムが加わり、眼から耳から観客を煽りまくった。大興奮、大満足。これぞプロの仕事、と言いたい。 |
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Slowly, Slow for
Drive ダンスマガジン (1999) Writer: 貫成人 北村明子の『Slowly, Slow for Drive』は、照明や映像を巧みに使って、ダンスの強度を高めることに成功している。舞台に3つ、光の長方形。その中に横たわる三人のダンサー。彼らは、ゆっくり動きだし、やがて群舞に移行する。その動きを切断し、細分化する光や文字。danger、independenceなどは、メッセージを伝える語ではなく、文字にすぎない。ダンサーの横たわった身体に書物の一ページが高速でスクロールされ、重ね映しにされたいくつものページが舞台中央に蝟集する。精神の営為や失われた過去を保存し、墓に刻まれて死を逆照射する「文字というもの」は、踊る身体の対極である。「死の静寂」「埃くさい図書館」を蹴散らすように展開される後半。動きの軸やリズムとの調和を巧みにずらして加速する、オフビートのグルーヴ感にみちたソロと群舞は爆発的だ。観客は、ダンサーの喜びまで感じとる。 |
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北村明子/レニ・バッソ ダンスマガジン 「コレオグラファーカタログ50」 北村の本領は、額縁舞台で身体だけに頼ったダンスを見せることではない。むしろ舞台と客席との落差を取り払い、音や光や映像が劇場空間を満たし、ダンスと他の要素とが交錯し混交するようなものを目指している。五感のすべてに演出を仕掛けていく北村の作品は、芸術の境界が曖昧になり、ダンスの定義が書き直されようとしている現代の、ひとつの方向を示すものだろう。 |
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